昭和42年07月08日 朝の御理解



 広大なおかげを頂きまして、有難う御座いますといえる御用。金光様のご信心を、段々、頂く様になりますと、皆さんが、おかげを頂きまして有難う御座いますと言う言葉と同時に、みんなが使う言葉でございますね。おかげを頂きまして有難う御座います。もう初めの間はもう何もかにもおかげおかげと言うから、おかげと言う事が分からないと、初心の人は思う位に、金光教では一切をおかげおかげとこう申します。
 ここにお参りをして来ても、おかげを頂きました。転んでも怪我をしても、泥棒に入られても、おかげを頂きまして、有り難う御座いましたと、その内容は知らすがともかくとして、おかげを頂きまして有り難う御座いましたと言う。同時に日々、広大な大みかげを、蒙りまして有り難う御座いますと。神様にも、お礼の中にそういう言葉を使われるだろう。また、普通のお届けの中にも、お話の中にも、広大なおかげを頂きまして有り難う御座いますと言う。ね。
 ですからほんとにその広大なおかげを頂かせて頂く、いわゆる広大無辺のおかげを頂かせて頂くと言う事。昨日信徒連合会の筑水連合会の共励会が、田主丸教会で御座いました。こっからも沢山おかげを頂かれて、もう一人一人が感激して帰って来られるんですね。もう本当に素晴らしいお話で御座いました。取分け会長の平田会長のお話は、皆んなその肝に銘じて素晴らしいお話であったと、というそのお話の中にも。
 総代さんの堤さんが、ここで帰りがけに、お寄りしてお届けされるなかに、ほんとにもう素晴らしい先生、お話でございました。自分は、五合入りの受けものしか持たんのに、二升もくれ、三升もくれと言ったって、入れられる筈がない。二升欲しいなら、二升徳利に、三升欲しいなら三升徳利の、私にならなければ駄目だ。という様な事を力説された。本当におかげ、おかげではいかん、信心はおかげという事を。
 様々な角度から、見て居る事を説かれたと。それで皆さん、非常に感銘深く帰ってきて、話しておられます様に、確かにですね。広大なおかげを頂きたいならば、矢張り広大な、私は広大なというと、なんですね、寛大なと言いましょうかね。寛大な、私共にならせて頂かねば、いけないので御座います。今朝私は、神様から、寛大という事を頂きました。いわゆる、広大無辺のおかげを頂かせてもらう為に、私共は先ず、寛大にならなければいけません。ね。どの様な事でも、それが許せると
 。是だけは許せない、と言った様なものが。それこそ、許せれる、私にならなければいけない。あれがあんな事を言うたこの一言は聞き捨てならん、許せないなんて言う様な事を申しますけれども、此処ん所が私は分らせて貰うと、例えていうならばそれがどういう苦しいい事であろうがですその苦いという事を、心の胃腸が弱いからだと先ず、悟らなければいけません自分自身が。そして今こそ、一番効くといわれる、胃の中に、苦い苦いセンブリを飲ませて頂いておる様な気持ちなのです。
 今こそ、苦いセンブリを、頂いておるのだと、言う様な頂き方の中に、その心の胃腸がいよいよ、広うなる大きくなって来る。何を食べても、当たらんという事になって来る。ですからそれは、血に肉に、ならない筈は、御座いませんものね。どんなに臭いものでも、臭い事でも、どんなに臭いとでも、やっぱ身体が強うなると思えば、ニンニクでも食べるでしょうが、ね。
 それこそニンニクでも頂いておると思うてです、どうしてそんなに臭い、どうしてそういう苦い事を私に、と言わずに、そういう心が、広う、大きゅうなる事の稽古に、導きさせて貰わなければいけません。皆さん、広大なおかげを頂きたいならば、一つ、先ず、お互いが寛大にならなければいけません。ね。いわゆる、大きな、豊かな心を頂かせてもらわにゃいけません。
 その寛大という事を、私、頂きましてから、成程寛大、成程広大無辺というのは、もっとそれよか意味があるとでしょうね。広大無辺、無辺の御神徳の中に私共は確かに、生かされて生きておるので御座います。天地のお恵みの中に、私共が生かされて生きておるのである。是が広大無辺のおかげの中にある訳で御座います。信心が有ろうが無かろうが、世界中の氏子におかげは、やってあるというのがそれなんです。
 神様のいわゆる広大無辺なおかげ、白い黒いはおっしゃらん、ね。善人、悪人はおっしゃらん、なべての人類の上におかげを下さってある。広大無辺のおかげなんです。ね。広大無辺というのは、そういう意味合いなんです。寛大というのは、私共が、是は人間の使う言葉だと思いますね。寛大それを頂いてから、私色々に本当に寛大にならせて頂かにゃならん。そしたら、三、四日前でしたかね、あのテレビであの、何とか、徳川の夫人たちと言う物があっておりますですね。
 私は、そこんとこだけで、後先は分かりませんけれども、三代将軍家光が、あの、亡くなる所の場面でした。いわゆる、どっくのまきが、もう泣き悲しみという、なんかの巻きだったんです。昔の殿様って言うのは、もう否が応でも沢山な、矢張り御妃と言う者を、奥さんを、その迎えなければならない訳なんですね。なかに一人、あの如性何とかといいました、忘れましたけれども、その人には子供がない。
 もう、皆んなその、将軍の、御妃と言われるようになりますと、もうとにかく将軍の種を宿したい、子供を産みたいと言うことで、一生懸命、その為にはもう、それこそ様々なその恨み、ねたみといったような物がその渦巻いておる、いわゆる徳川の、なんと申しますかね、奥御殿とでも申しましょうか、の、まあ様相をテーマにした、まあテレビ映画のようでございました。ね。
 ところがその、初めから最後まで、いわば家光ですが、あの、愛し続けたという人が、その名前は忘れましたけれども、もう実にその寛大なですね。自分がその、すいきょする女性の場合なんかでも、その人の幸せをいよいよ祈ってある。子供が出来れば、子供が出来たで、他の女の人達は、残念であって歯がいがっているのに、その人は心からそれを喜んである。または、将軍が、その寵愛する女性があると、自分は何時でも身を引こうというような寛大さである。
 だから、もう最後の最後までお前だけはもう、その自分の、いわゆる家内という事と同時に、自分の母親とでも同じだと言うてその、いわゆる寵愛し続けるとな筋だったと思います。恨むとか、ねたむとか。と言う様なものはさらさらない。むしろその相手の事が、幸せになって行くとを、喜んでいると言う様な心。寛大な。その一場面を頂くんです。その時あの、大きなおイサミが御座いましたね。今日の、おイサミは違ってましたですね。もう、実に澄み切ったおイサミでした。
 なんかお広前いっぱいに、パーんと頂く様なんではなくてから、何かもう実に澄み切った、もう何処までも響き渡る様な、おイサミで御座いましたですねえ。私は丁度、そん時その映画の、その一場面を頂いた時でした。ははぁこういう風に人間と言う者はならなければいけんのだな、寛大にならなければいけないのだなという事。憎みあうとか、妬み合うとか、自分の為ならその、どういう手段も選ばんで、そこを弄していくと言った様な、卑屈なやり方ではなくてです。
 ほんとに、寛大にならなければならないのです。同時に、寛大の寛という字を、皆さん自分で理解付けて御覧なさい。寛という字は、ウ冠がこう書いてある、是は天地宇宙です。それに草冠、草冠は何時も自然という、自然その者は神様の働きなのである、宇宙の中におきて来る全ての事、まして自分の周辺に起きて来る、自然に起きてくる全ての事、是をそのまま神の働き、神の姿、神の声として、頂かせて貰う心が寛大だと言う事なんです。私だけが、どうしてこんなに、貧乏くじを引かんならんだろうか。
 なんと言う、あれは分からん人じゃろうか、あれは、分からん奴じゃろうかと、いうじゃなくてです。そういう、例えば、苦い思いをする様な場合は、先程も申します様に、この苦い、是こそ心の胃腸を強うしてもらうために、頂くという事と同時にです。千分一等を思うて、頂くという事と同時にです、何故その二代が、応用しなければならないかと、いう事を追求して行く。
 神様がね。こういう事態、こういう問題、こういう事柄を持って、私に教え様となさっておられる、そこんところを、宇宙の中に起きて来る一切の事柄をです、神様の働き、神の声と聞かせて頂、頂かせてもろうて、それを有り難く合掌して行く。そういう心が寛大なのです。ね。そこで、分からせて頂くことはです。私共がほんとに、どういう苦い思いをする様な場合でも、そういう頂き方があるということと同時に、そういう頂き方が、本当だと言うことなんです。
 本当なんだけれども、それがある事が分かっておるんだけれども、どうも許せない。矢張り、苦い思いをさせ、自分に熱湯を飲ませたと言うて、その、例えていうならば、腹を立てたり、それに対して、自分がたいこう意識を出したりすると、言うところにです。昨日も、共励会のなかでご自分、自分自身がまあ、おかげを受けておるという人が、こう言う事も私は、何時の度でも言い続けておる、おかげ、おかげとばっかり言うて、どうして信心が分からんのか。
 こういう信心を言うとに、もうそれこそ、卓を叩いて、もうそれこそ、教師も信者もない、もう言うなら、その人に言わするなら、もう馬鹿んごたるその表現で、まあ言われた方があったと言う訳である。成程おかげを受けておられます。と言うて、自分の様にならん。ここで、ならいうなら、私が、あんたどん、どうして分からんかと言うて、私が、地団太踏んで歯痒いがった所でです。分からせ切らない私なのだ。
 そこを思うて来るとですね、是は、是はまだ自分の、成程、おかげは受けておるけれどもです、その、こういうおかげを受けるためには、こういう信心しなければならないという事をです、いかに、いかに力説致しましてもです、それが、聞いておるものが、ほけのごとしてから、いっちょん分からんから歯がゆい。壇上から、もう歯軋りする位に歯がゆいと、例えば言わずにです、分からせ切らない自分を省みてです、おかげを頂いたら、そういう例えば、過激な事は言わなくても。
 寛大になれるのじゃなかろうかと。寛大にならせて頂く時にです、私は聞く者をして、皆がおかげを頂く時じゃなかろうかと言う風に思うた。一人の旅人の外套を脱がせる為に、風は猛烈な風を送った。それこそ何もかにも吹き捲る様な勢いを持って、風を送ったけれども、旅人は、いよいよその外套を脱ごうとはしなかった。いよいよ身体に付けて行った。いよいよ外套を引っ被って、離そうとしなかった。
 けれどもお天道様は、それに暖かい、暖かい春の光の様な光を、その旅人の上に送った。所が、自然とその、外套を脱いだ。脱がせる為には、矢張り、そういう暖かいものが必要なのだ。寛大な心が必要なのだと。私はそう思うですね。寛大な心にならせて貰う。私は初めに広大無辺と言う言葉を使いました。それは神様のお心であり、神様のお働きが、広大無辺であると説きました。
 人間は広大無辺とまではいかんでも、寛大になれと申しました。そこで、苦い思いをする時には、というのを矢張りあの、センブリの例を持って説きました。ね。いよいよ、信心が分からせて頂いて、この世の中に起きて来る、一切の事が神様の働きであるという事が分かって参りましたら、宇宙天地、その中にある、包含された物、事柄、それ一切が、天地の親神様のお働きなのだ。
 まして自分の周辺に起きて来る、様々な問題もです、是を自然を見ると言う事は神の姿、神の声として頂くのが本当だという事を説きました。さあそこ迄本当だと分かりましてもです、受けられんのが実情では無いかと云う事なんですよ。そうでしょうが。そう言う事は、神様の働きの事は分かっているんだけれど、分かっているんだけれど、やっぱり歯がゆい。分からないどうとか向こうに一矢報いたら、こちらも一矢それに報いて返したいと言う様な心があるでしょうが。
 寛大になり切らない。なぜ寛大になれないのかと。私はその、徳川の婦人達じゃないけれども、その女性というのはです、もう大変、大体が心の美しい人であったという事。若い時から、仏道に精進し、一度は尼にまでなったという人である。仏の道を体得し様と、精進した人である。その上に、限りない美しい心を持っているのであるから、例えばその様な、寛大なあり方にならせて頂くのである。
 そこでお互いが如何に言うなら、神心を強うして行かなければならないかという事が、皆さん分かるでしょうが。寛大になるためには、どうでも、神心を強うしていかなければならない。神心を強うして行くためには、本気でお互い、限りない美しさを目指して、限りなく美しゅうなりましょうやという事にならないけん。美しゅうなるためには、先ず、改まらにゃいけん。本気で研かにゃいけん。ためにここで必要なのは、一心の信心であり、一心の修行なのです。
 昨夜、総代会が御座いました。この度の総代会から、私も出席させて頂く事に致しました。もう総代さん方と一緒に信心を、一つ高めていこうと。今までは総代会は、ほとんど信心の共励と言う事ではなくてもう、例えば一月なら一月の、ここの合楽の運営に付いての話し合いしか出来なかったんです。ところが最近は、もうその総代さん方の下に、様々なその組織が出来て、それぞれにその、例えばその前の晩が、企画の委員会で御座いましたから、例えば企画の方達が、それをやってくれる様になった。
 それぞれの役場、持ち場を持ってやってくれる。ただ、それを検討するというだけにで、良い事になって来た。だからそういう意味合いでは、楽になったからその楽になったその、余力を結集して、言わば合楽全体の事の上の、祈りの原動力になろうという、誓いにも似た様な話し合いを、この頃さして頂く様になった。総代同志が悪口どん、言うとる段じゃない。もう打って一丸になって、合楽のそう言う様な様々な組織的な働きと言う物が、おかげの頂けれる様にです。
 祈る一つの原動力だ力だという事に、まあ総代さん方が目覚めつつあられる。ですからその半ばに、委員長が、昨日あの飯塚の久保先生が見えておられましたから、正義さんと、それから、富永さんと三人で、お送りした訳です。それで、その半ばに帰って参りました。そして帰ってから一段とその、共励会が有難い共励会になった訳で、御座いましたけれどもです。いよいよそういう意味合いで、総代さん方の場合は、いよいよ寛大になられなければならないですね。
 総代さん方に限った事ではないけれども、これだけの大所帯に段々なって来れば来る程に、その運営のいわば、鍵を握っておられる、総代さん方が、いよいよ寛大にならなければいけない。為には、いよいよ神心を強う、大きゅうしていかなければいけないと言う事。為には、どうでも、一心の信心をして貰わねばならん。そんな事で御座いましたから、私夕べの、御祈念を御無礼して、ひろ子先生が奉仕しました。ひろ子さん、今日は色んな御祈念を頂きなさい。
 あんまり、咄嗟でしたからびっくりして、なんでもない様ですけど、皆さん丁度、堤さん今晩貴方が代わり御祈念して、と言われたら、やっぱびっくりしますよね。けれども総代さん方ともなるならです、幹部ともなるなら、何時大祓いのせん、いや御祈念の先唱ぐらいは、出来る。銘々が出来る位にならなければ詰らんです。そらもうひろ子先生だん、一年間も御本部で稽古しておりますから。
 言われてもそりゃ、ある意味合いでは、出来るですけれども、ここの、あのご神前のみょうとの座の上に座るというだけでも、矢張り身が縮むごたる思いが致します。是は、私は日々がそうですもん。もう神様は慣れたらおしまい。それで私は終わってから、ひろ子さんが参りましたから、今晩の御祈念はどうだったかと。初めて祝詞、いわば合楽の、祝詞座に座らせて頂いてから、どういう感じだったかと。ね。
 この気持ちを忘れるなと。あんたが、是から布教に出てから。合楽で一番初めに、咄嗟に先生が、御祈念を仕えろと仰った時の、あの気持ちを忘れるなと。あの気持ちさえ忘れなかったら、おかげ頂くと言うて、まあ、申しました事です。ですから、そういうものが、本当は、持ち続ける事は出来ないのだけれども、そこに、信心が、修行が、日々、更な信心になってくるときにです。
 いつも更な思いであそこへ座ることが出来るのだ。修行なんです。是は古賀先生が、椛目に修行に参りましてから、丁度一月位経った時に、自分の親教会である飯塚の教会の御大祭でした。明日は、御大祭で、お参りせんならんというから、私は、お初穂やらお供えやらを、ちゃんと用意してやりましてね、みな、夜の御祈念が終わって、皆んな帰った後に、私は古賀先生に申しました。
 丁度ひろ子さんに申しました様に、古賀先生今晩ねお供えを下げ二十台の三宝がある中にですね、私が五台だけ神様にお願いをさせて頂いた。あの中から五台だけ御神意を頂いて、下げてくれと私がもうそれこそひろ子さん以上に、びっくりしましたですね、そん時古賀先生が。御神意なんてもう自分等が頂ける筈はないと思っているんだもんね。しかもあぁた一台きりならよかばってん五台も引かんならん。
 一台でん間違うたらいわば神徳試験に落第。私は思ったんです、明日は親教会に帰るのだから何がお土産と言うても、椛目ではこういう稽古をさせて頂いとりますという事を、私は親先生に持って帰って貰たいと思ったから、いよいよ明日が飯塚に帰るという前ん晩にそれを私がいうなら命じました。はぁほんに一生懸命にならざるを得ません。三十分ぐらい一生懸命に御祈念しました。
 私は神様から頂いておるのを全部ここに紙に控えて控えました。あの中の乾物瓶詰め神様からお許しいただいた五台だけを、私はここへ控えて私は御結界の方に付いておる。一生懸命どうぞ間違えん様に間違えたら本人が自信を失う。そしていよいよ御祈念が終わってから下げますとをですね、もう私が頂いた通りに五台を下げたんですからね。私がその晩に家内に言うてから今日お神酒を一本つけろと言うてから。
 お神酒を付けてから祝うてやりました。神様から頂いた頂き始め今日は古賀先生、この気持ちを忘れるなとあの位に一生懸命ならば誰でも御神意が頂け様がと私が言うた。と言うてそれが長く続かん。訳では御座いませんけれどもはぁ御神意でも頂くと言う事はああいう心になる事だという事をです、もういやと言う程先生分かっただろうと私は思うのです。皆さんが折角こうして朝の御祈念にお参りになるので御座いますから。
 その朝のお参りが昨日のお参りと今朝のお参りが同じであってはならないと云う事です。そして今日私が申しました様な所へその、そういう信心へです、今日も一日本気で寛大にならして頂きたいという願いをですさして頂いたらそこからね、いよいよ寛大なおかげと同時にいわゆる神心が生まれて来る。一番なんと言うても一番言わば寛大な大きいものは、神様のお心だと。
 ほんならこちらが神様の心と同じよな心にならせて頂いたら、それこそ有難く寛大になれるという事が分かるでしょうが、お互いが広大なおかげを頂きたいと思う。ならば先ず、私の心自体がです、いよいよ寛大にならなければ、大きなおかげは願われない。平田さんのお話じゃないけれども、二升かお酒を下さいと言うて、五合徳利どん持って行って、どうして二升のおかげが受けられるか。
 一升五合が、いわばお粗末御無礼になって行く、そのお粗末御無礼になるだけでも、なら次のおかげが受けられんと言う様な意味の事を仰ったと言う事です。自分の先ず受けものを知れ。そしておかげを頂きたいなら、いよいよそのおかげをです、寛大な、大きな受けものにして、行かなければならないという事にです。焦点を置かなければならないという事が、分かりますですね。
   どうぞ。